![]() ゲリッシュカヌーカンパニーゲリッシュのビジネスは30年の間、フライロッド、スノーシューなどを作る個人商店から何百ものカヌーを作る工場を持つほどに着実に大きくなった。 ゲリッシュは常にカヌー作りに於いて積極的で、カタログには、彼のガイドとしての経験や彼のホームタウンであるブラウンヴィル(Brownville)の近くのBポンドでの「快適な」キャンプ施設を利用できることが書かれている。 1882年に最初の従業員を雇い、カヌーは1艇約25ドルで販売された。 1890年に、バンガーのフレンチ通りとハンコック通りの角に40×50フィート(約12×15m)の2階建ての新しい工場を建てた。 6人の従業員で年間約60艇以上のカヌーを製造した。 広告では、遠くはモンタナやノースカロライナにまで客がいることが自慢されていた。また、大きな市場であるマサチューセッツ州のチャールズ川地方には貨車で送り出されたのだった。 1895年当時、アメリカには多くのカヌーメーカーがあったが、ゲリッシュは年間150艇以上ものカヌーを製造する最大のメーカーであると報告されている。 このとき従業員は10人で、カヌー1艇の平均価格は45ドルであったという。 ゲリッシュは、ニューオーリンズのワールドフェアーにカヌーを出品し金賞を受賞し、コロンビア博覧会にも出品した。 イヴ・ゲリッシュはカヌーの製法、スタイル、デザインを自身の経営者精神に乗っ取って進歩させていった。 彼は、カヌークラブで大変人気のあった30フィートのウォーカヌー(インディアンの戦闘用カヌー)や、モーターカヌー(モーターといってもエンジンのこと)や、1905年よりも前に、新しい方式であるオープンガンネル方式を採り入れたりした。 2-1/2×1インチ(約6.3×2.5cm)の小さな長方形の銅製のプレートが前のデッキに取り付けられていた。そこには、「E.H.ゲリッシュ、メーカー、バンガー、メーン」と刻印されていた。 残念ながら彼はカヌーに製造番号や日付などを入れていなかったので、残っている数少ないカヌーもいつ作られたものかはっきり分からない。 彼のカヌーは、ペノブスコットやマレシートのバークカヌーの美しいスタイルを反映している。シート、スォート、デッキは細く、後に人気が出るがっしりした太いタイプとは異なっている。 ゲリッシュは一人息子のスタンレーに後を継いで欲しかったのだが、父親の思うようには行かず息子は違う道に進んだ。 1909年、ゲリッシュが61才の時、数年間総支配人であったハーバート・D・ウォルトン(Herbert D.Walton)に会社を譲った。 ゲリッシュと妻は1919年までバンガーに住んだ後、ブラウンヴィルに戻った。 彼は、1930年に82歳で亡くなるまで、Bポンドでのキャンプを開催し続けた。 ウォルトンは会社を譲り受けて1年後、ホームタウンである上流のカードヴィル(コスチガン)(Cardville)(Costigan)に移転した。 2人の兄弟を雇って、少なくとも数年はこれまで通り順調であった。 また、ゲリッシュはローイングカヌーを発明している。ペノブスコット川のサルモンプールで大変人気があった。ウォルトンはこれをさらに広げ、この地域では「サルモン・ピーポッド」と言う名で知られている。 しかし、ウォルトン兄弟はそう長くは居なかった。1920年代になるとカヌー生産は急速に衰えた。 そして、30年代初頭の火災によってショップの大半が焼けてしまい、ハーバートはついにカヌー作りをやめてしまったのだ。
Hiro Wooden Canoe Shop
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